ピーター・ノーマンがメキシコオリンピックで見せた勇気を忘れてはいけない!

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1968年に開催されたメキシコオリンピックで銀メダリストとなったにもかかわらず、その栄光はふるさとのオーストラリアではほとんど知られておらず、なんとアルバイトで生計を立てていたというピーター・ノーマン。

一体、ピーター・ノーマンに何が起きたのでしょう。

今回は、ピーター・ノーマンについてリサーチします!

 

ピーター・ノーマン プロフィール

1942年6月15日生~2006年10月3日没(満64歳)

オーストラリア・ビクトリア州出身

1968年メキシコオリンピック(夏季)の陸上男子200mの銀メダリスト

 

ピーター・ノーマン 人種差別と戦ったオリンピック銀メダリスト

1968年に行われたメキシコオリンピックの陸上男子200m。

金メダルは、トミー・スミス(アメリカ)
銀メダルは、ピーター・ノーマン(オーストラリア)
銅メダルは、ジョン・カーロス(アメリカ)

表彰台に上がった3人を写した写真が歴史上、とても意味のあるものとなっています。

アメリカ合衆国国歌の流れる中、2人のアメリカ人は、黒い手袋をはめたこぶしを天に向かって高々とかかげ、頭を垂れていました。

輝かしいオリンピックの光景にしては、何とも異質な光景です。

2人が行った行為は「ブラックパワー・サリュート」と言われるもので、黒人に対する差別に抗議する意味がありました。

トミー・スミスもジョン・カーロスもアフリカ系アメリカ人。

黒人の貧しさを表すため、シューズの代わりに黒い靴下を履き、スミスは黒人のプライドを表す黒いスカーフを、カーロスは迫害された黒人たちに祈りを捧げるためロザリオを身に着けていました。

この行為が原因で、スミスとカーロスの2人は、その後長い間、アメリカのスポーツ界から事実上追放されてしまいます。

メディアからも非難され、多くの脅迫文も届いたそうです。

そしてまた、白人であった銀メダリストのピーター・ノーマンも、スミスやカーロスと同様に批判に晒されました。

それは、なぜなのでしょう。

ピーター・ノーマンは、オーストラリア史上最速と言われた短距離選手。

メキシコオリンピックでは、200mを20.06秒で走り、銀メダルを獲得しました。

この記録は今でもオーストラリア記録として破られておらず、本来ならオーストラリアのヒーローとなるはずだったピーター・ノーマンがなぜ批判されなければならなかったのでしょう?

それは、スミス選手、カーロス選手にピーター・ノーマンが共鳴したから。

その頃のオーストラリアでも、アメリカのような非白人に対する差別、排除が横行していました。

そんな中、白人であるピーター・ノーマンが黒人と接触したり、同調したりするのは、命取りの行為だったのです。

しかし、表彰台へと向かう中、ピーターは、スミスとカーロスから「ブラックパワー・サリュートを行う」ことを打ち明けられます。

するとピーターは、スミスとカーロスの胸につけられたバッジを指差し、こう言ったと言います。

「君たちが信じていることを僕も信じている。

それ、僕の分もあるかい?

そうすれば僕も人権運動を支持していることを証明できる」

そのバッジとは

“人権を求めるオリンピック・プロジェクト(略称:OPHR)”

オリンピックの選手たちが無言で平等な権利を訴えるシンボルでもありました。

ピーター・ノーマンからの申し出に、余分なバッジを持ち合わせていなかったスミスは、他のアメリカ人選手から借りて、ピーター・ノーマンにバッジを手渡したと言います。

そして、当初はスミスが一人だけ両手にする予定だった手袋を、スミスとカーロスで片方ずつ着けた方がいいとアドバイスしたのもピーター・ノーマンだったそうです。

 

ピーター・ノーマン 波乱の生涯

時代が流れ、アメリカでの人種差別がなくなった後、スミスとカーロスは英雄として讃えられ、2人の母校であるサンノゼ州立大学には、あの表彰台での写真を再現したモニュメントが建てられました。

しかし2位の表彰台には、そこにいたはずのピーター・ノーマンの像はありません。

ピーター・ノーマンの姿がその像の中に存在しないように、オーストラリアでも歴史の中から消されたかのような扱いを受けていました。

1972年のミュンヘン五輪でも出場資格を得たものの、代表から除外され、のちにアキレス腱を痛めてスポーツ界を引退。

その後は体育の教師や肉屋などの職を転々としたそうですが、家族共々社会から疎外され、生涯アルコール中毒とうつ病に苦しみ、2006年に心臓発作で亡くなりました。

ピーター・ノーマンの葬儀にはスミスとカーロスも駆けつけ、彼の棺を担いでいます。

彼の死後6年も経った2012年、オーストラリア政府はやっと正式な謝罪をで行いました。

政府は

「ミュンヘンオリンピックへの出場を認めなかったという過ちと、彼のしたことを認めるのに時間がかかったこと」

を謝罪しています。

ピーターがメキシコオリンピックで勇気の行動をとってから実に40年以上の年月が経ってからの謝罪。

あまりに遅すぎますね。

いくら、今こうやって、世界のメディアが「オーストラリアに人種差別に正々堂々と挑んだ英雄がいた」と取り上げても、本当はもう遅いのです。

自分の行動が、その後の人生にどんな影響をもたらすか、ピーター自身わかっていたはず。

それでも、瞬時にスミス選手らの考えや行動に同調した勇気を、私たちは真剣に考えなければなりません。

未だに差別のなくならない世の中、私たちにできることを1つ1つ果たしていかないといけませんね。

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