長崎バスジャック事件の犯人が命まで奪われた理由!?後世に残した影響の大きさを悔いよ

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2月11日放送の「奇跡体験!アンビリバボー」では“日本中を震え上がらせたバスジャック事件”と題し、1977年に起きた「長崎バスジャック事件」を取り上げます。

犯人はなぜこのような犯行をおこしたのか!?

そこには、直前に起こったある国際的な事件が影響していました。

今回は、歴史的にも大きな意味を持つ「長崎バスジャック事件」についてリサーチします!

 

長崎バスジャック事件

「長崎バスジャック事件」は、1977年10月15日午前10時頃発生したバス乗っ取り事件です。

長崎県平戸発、佐世保・大村経由長崎駅前行きの路線バスが、大村市内を走行中、2人の男によって乗っ取られました。

給油のために立ち寄った長崎市内のガソリンスタンドで、起点を聞かせたスタンドの従業員が通報し、駆け付けた長崎県警察に包囲されます。

犯人たちは乗客5人の解放と引き換えに、食料・飲料・毛布などを要求。

犯人たちは、「阿蘇連合赤軍」と名乗り

「法務大臣の瀬戸山三男と新自由クラブ(当時の野党)代表の河野洋平及び、政治評論家の細川隆元を連れてこなければ交渉に応じない」

と主張しました。

警察は犯人たちの説得を続けましたが、人質たちの体力の限界を考慮し、事件発生から18時間経った16日午前4時25分に行動に移します。

警察官の

「撃つなら俺を撃て、撃つなら撃ってみろ!」

と言う挑発にのった主犯格の男は、持っていた手製の爆弾を投げ放ち、爆発が起こった瞬間に一斉にバス内部に突入隊が突入。

3名の警察官が発砲した7発の銃弾により、主犯だった川崎久之(当時31歳)は20分後に死亡、もう1人の犯人(当時39歳)は重傷を負います。

人質16人全員は無事に救出されました。

 

犯人たちの目的は?

犯人たちの目的は身代金狙いだったようです。

犯人たちの要求

「法務大臣の瀬戸山三男と新自由クラブ代表の河野洋平及び、政治評論家の細川隆元を連れてこなければ交渉に応じない」

とありましたが、この時に犯人たちは自分たちのことを「阿蘇連合赤軍」と極端に左翼的な団体名を名乗っていました。

しかし、右翼寄りの評論家であった細川氏のことを「細川隆元先生」と呼び、思想的に支離滅裂と思わざるを得ない発言が目立ったことから、警察では早い時点で犯人たちは赤軍派とは無関係と判断していたそうです。

実際、犯人たちは赤軍派を名乗ってはいましたが、政治思想などまったくない場当たり的な犯行だったようです。

生き残った犯人には、懲役6年が言い渡されました。

この事件は長崎放送とテレビ長崎が、突入から逮捕、人質救出までの様子を全国に中継していて、後側からズームカメラで撮影した映像がVTR保存されています。

リアルタイムで事件の様子が流れていたら、全国の視聴者は固唾をのんで見守っていたことでしょうね。

戦後、犯人の命を奪うことで解決した事件として、1970年に起きた「瀬戸内シージャック事件」かありますが、長崎バスジャック事件は、それに次ぐ2例目の事件となりました。

日本の警察はこれらの事件をきっかけにSATの設立を急いだと言われています。

 

犯人が命を奪われた理由とは!?

1977年と言えば、筆者は小学1年生。

自分の住む街で、こんな大変な事件が起きていたことを恥ずかしながら知りませんでした。

金銭目的の犯行で人質を16人も取っていたとはいえ、犯人は命を奪われる結果となりました。

罪は罪ですが、この判断はいささか性急な気がしてなりません。

しかし、この事件の背景には、この長崎バスジャック事件の起こる17日前に起こった日航機のダッカ事件が影響していると言われています。

日本赤軍が起こしたこの大掛かりなハイジャックに、16億円という莫大な身代金を支払った日本は、国際的にも非難を浴び、直後に起こった長崎でのハイジャックには強行な姿勢に出ることが政府からも求められたのかもしれません。

犯人の川崎久之らは、自分たちもあわよくば大金を手に入れられる…そんな単純な動機だったのではないでしょうか。

それが死を招くことになるとは。あまりにもあさはかでタイミングの悪い犯行です。

それどころか、この事件以降に起こるバスジャック事件の発端となったとも言われていますし、その点では犯した罪は甚大です。

テロなどが多発する現代。

いやなことに、このような無差別的な犯行が世界で相次いでいます。

しかし、世界へ出ていかずとも、身近なところで長崎バスジャック事件のようなことが起きらないとも限らないわけです。

この悲しい世の中、どうにかならないものでしょうか・・・。

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